昭和の漫画家さんは、複数雑誌に執筆していた!
週刊漫画雑誌を読み始めた昭和の当初は、同じ漫画家さんが他誌にも描くってのを知らなくて。
たまたま風邪引いて近所の内科に行ったら、待合い室にサンデーがあって、永井豪さんの『あにまるケダマン』というギャグ作品が載ってたんですよね。
「サンデーにも作品が載ってるんだ!」って、ビックリしたのを覚えてます~。
その後、漫画家さんは各誌の専属契約のようになっていきましたが・・・。
その発端は、永井豪さんが講談社の「テレビマガジン」に『マジンガーZ』の連載をすることになり、もともとの『マジンガー』連載誌だった集英社の「少年ジャンプ」がそれを不服とし、以降ジャンプは漫画家さんを専属制にしはじめたことによるとか(ジャンプ版マジンガーは、結局途中で打ち切り)。
昭和のあの当時は、たとえば少年マガジンに載ってた赤塚不二夫さんの『天才バカボン』が、少年サンデーに移籍したりっていうことさえあったんですよね~。
この顛末は、当時の赤塚さんの担当編集者・武居俊樹さんの『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』(↓↓↓)に詳しいですが。
で、『天才バカボン』は、しばらくしてまた少年サンデーから少年マガジンに戻ったっていうのが、やはり昭和的ですよね~。
昭和は「漫画戦国時代」だったかも!
当時の売れっ子作家さんは、手塚治虫さんや石森(石ノ森)章太郎さんも含めて、複数の雑誌に作品を描くのがふつうにありましたよね。
永井豪さんも、一時は週刊漫画誌5誌に連載し、さすがに限界を超えてしまい、1誌(少年キング)は3週間ほどで連載終了にしたとか。
昭和の当時は「来た仕事は断らない」というプロ根性だったようですけど、それが大御所漫画家さんたちの早逝の原因になったとしたら・・・
そのへんは、実に残念ですねえ。
各誌の競争で、まさに「漫画戦国時代」の様相だったかもですね~昭和の当時は。
ただ、たとえば赤塚不二夫さんのところの「アイデア会議」に、少年マガジンの担当者も少年サンデーの担当者も加わって、「面白い作品ができればそれでいい」っていう雑誌の垣根を超えた関係にあったとか・・・。
こういうのって、実に昭和的で好きな話ですね~。
当時は漫画家さんだけでなく、編集者さんもかなり個性的だったようですね。
そういう作家さんと編集さんの関係が、あのダイナミックな昭和漫画の数々を生み出したのかもしれませんね~。
【少年マガジン】の「怪奇記事」が好きだった!
当時って、少年漫画誌でも、いわゆる活字だけの「読み物」も今より多かったですよね。
もともとが、そういう読み物中心にスタートして、だんだんと漫画の占める分量が増えていったという経緯らしいですからね、どの少年漫画誌も。
で、マガジンだと思いますが、結構UFOとか宇宙人とか怪奇系の話が出ててですね。
実にまことしやかな目撃談とかですね~。(笑)
結構好きで読んじゃってたんですよね、そういうのも。
もーっと小さいときは、かなり怖かった覚えがありますよ、そういう読み物は。
なんだか、おどろおどろしい挿し絵が付いてて。^^;
昔の挿絵描いてた画家さんの画力はすごいですよね。
(昭和当時の怪奇本がコチラにあります)
私は「少年チャンピオン」と「少年キング」はあんまり読んでませんでしたね~。
手塚治虫さんの『ブラック・ジャック』くらいでしょうか。
少年画報社の名物編集長・壁村耐三さんが、「手塚先生の死に水をとってやろう」みたいなことで当時人気が下降していた手塚さんに依頼したとか。
すぐ終わる予定だった『ブラック・ジャック』はヒット作になり、手塚さんも一気に復活したっていうお話も、昭和的なイイ話だな~、と。
あと、石井いさみさんの『750(ナナハン)ライダー』がめっちゃ人気でしたよね。
バイク好きの人にはたまんない作品なんじゃないでしょうかね~。
当時から渋いな~、と思ってたのは、「少年キング」ですかね~。
望月三起也さんの『ワイルド7』とか・・・。
個人的には、ちょっと敬遠してましたねえ、少年キングは。
ちょっと渋すぎるよな~って感じで。^^;
キングではのちに松本零士さんの『銀河鉄道999』も人気になったわけですけども。
私が大学生のときに出てきたのが、ヤングジャンプでしたね~。
それから他誌も続々と青年誌を出してきましたよね。
今は漫画読まなくなっちゃったんで、よくわからないんですけど、昭和の少年漫画誌の作品をまた読んでみたいな~と思いますねえ。
みなさんのお気に入りの昭和少年漫画誌は、どれでしたでしょうかね。
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というワケで、懐かしの昭和少年漫画誌のお話でした! 次回もまた、モア・ベターよ♪
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